2012年 12月 31日
なんて呼ぶ?

pâtes bolognaise パット・ボロネーゼ て スパゲティ・ミートソースのことやん?
café au lait カフェオレ はコーヒー牛乳やし。
もはやニッポンではカフェオレっつーことばは死んでしもうて
カフェラテにとってかわられたような気がするけど、これって気のせい?
最近ニースのカフェで café latte カフェラテ とか書いてあると
なんや、フランス人も日本人と似たようなもんやん、と思う。

2012年 12月 30日
mistigri ミスティグリ/ ババ抜き
2012年 12月 30日
fromage フロマージュ/ チーズ

上の白いのがフェタ。
時計周りにゴーダ、ミモレット、......あとの三つはわかんない。汗(ま、こんなもんです)
このほかにカップ入りのヤギのチーズ、カッテージチーズ、袋入りのとろけるチーズにクロック・ムッシュー用のチーズ。
年末の特別食べる時期のせいでもなく、だいたいこれくらいが我が家のスタンダード。
和食のこんだてのときも、〆はチーズだったりする。
お茶碗とおはしをささっと下げて、その足でバター・チーズ・クラッカーの三点セットを持ち再び食卓に現れる夫を
「そんなんゼーッタイにありえない。食べたりないならご飯おかわりせーよこのヤロ」
と思っていたのに、いつの間にかそれが当たり前になって腹の立つこともなくなってしまった。
......というか夕飯の早いときなんて十時ごろに小腹がすいてついチーズなんかつまんでいる。 >自分自分。

2012年 12月 29日
bonet ボネ/ 帽子
2012年 12月 28日
foire フォワァ/ 移動式遊園地

空中をぐるぐると回転する絶叫マシーン。
毎年この時期にニースの街中に出現する移動遊園地。
子どもたちにせがまれて結局は(いやいや)出かけてしまう。

ただしこの絶叫マシーンは未体験。
ピュレ~(うっそ~)とかいいながお口あんぐり。

白状するとわたくし、この移動遊園地が苦手。
つーか、きらい。
なんだかさみしくて。
夫にいうと、さみしいのは遊園地じゃなくて、キミのココロのほうでしょ、と。
......。そうかもしんない。

だって無駄だと知りながらこーんなわっかにお金費やすの、なんかさみしくない?

無駄だと知りながら必死になってわっかを投げるのも、みょーにさみしい。

三人が三人ともなにもゲットせず、
気の毒がっておじさんがさらにわっかを恵んでくれたにもかからわず
ついにすべてをすってしまうのも、ああ、さみしい~。

ましなアトラクションは室内のほう、つーのも、なんだかさみしい。

なつかしい匂いのするジェットコースター。
しかしこれ、移動してくるんですよ。
なんか、さみしくないですか......。 >もういいって。

このジェットコースター、名まえがナイス。

下ふたりはジェットコースターは「こわい」ので、こんなものを。

そんなこんなしてる間にデート中の長女と合流。
もともとは「長女が遊園地でデート」と聞きつけた下三人が「そんなのずるい」というので出かけて来たんでした。
デートをじゃまされたはずの長女、たいしていやそうでもなく。

室内中、大音響の音楽。
それにプラスして絶叫するアナウンスの声。
さみしい空間と重なってわたしはみょーにね、さみしい~気分。
てゆーか、あまりにもうるさいので自分たちも大声にならざるをえず、ちょー疲れる。

ビーチなどでもよくみかける、トランポリン。
おしおきにしか見えないのがさみしい......。

下ふたりもようやく乗り物。
だけどこれら、全部が全部、数日間のためにどこからか移動してきたものたち。
こんなのもが移動してやってくる、てところがさみしいのよね(とわたしのココロがいう)。
ここいらでわたしは、大音響の大絶叫、チカチカピカピカ、に耐え切れず一足先に外へ。
ここのところ、あったかくて助かった~。

チェロキー(ヌテラつき)をつまみながらようやく出てきた家族たち。
温かいのでてくてく歩く。
クリスマスは過ぎても街の中はまだまだクリスマスモード。
お正月がないせいで、年明けの一月いっぱいはこんな感じ。

ヴューニース(旧市街)でソッカとホットワイン。
ふぃ~。生き返る~。
あ、お酒ね、復活しておりまする。おほほ。
舌の乾かぬ内に飲みだしよってこやつめ。
わたしの場合、飲める、つーことが健康な証拠なの。 >おい!

2012年 12月 25日
j'ai réussi ! できたー!
2012年 12月 25日
des hûitres デズィットル/ 牡蠣
2012年 12月 25日
champomy シャンポミ
2012年 12月 23日
joyeux noël ジョワイヨーノエル/ よいクリスマスを
2012年 12月 23日
かわるもの・かわらないもの

子どもたちを車で学校へ送る途中
坂道を歩いて登る子どもたちを見かける。
ふと母親のことを思い出す。
「ママの育った場所も、こんな風な山がたくさんあってね、
ママのお母さんは、こんな風に歩いている子どもを見かけると
『あんたどこまで行くと。乗っていかんね』て、自分の車に乗せてたんだよ」
それを聞いた子どもたちは、あ、へえ、いいねえそれ、なんて笑っている。
ほんとに、いいよねえ。
「そうできればいいなあと思うけどねえ。
残念ながらママにはできないなあ。
だいたい、知らない人の車に乗る、てこと、しないよね、今の子どもたちは」
そういうと、子どもたちもそれに同意する。
時代。
場所。
慣習。
土台。
わたしの育った環境とわたしの子どもたちの育つ環境の違いに
あらためてびっくりすることがある。
それはわたしたちが今、時代の大変革期にいるせいなのだろうかそれとも
わたしの親たちも、わたしを育てながら同じことを思っていたのだろうか。
わたしはとんでもなく遠いところへ来てしまったなあ。
どちらにしろ、わたしはこのことばを口の中でつぶやく。
今年のクリスマス。
サンタクロースの存在したことのない我が家では
今ではクリスマスは「パパが子どもたちに平等にプレゼントを買う日」なポジションを完全に確立した。
お誕生日と決定的に違うのは「四人そろって平等に」という点で
四人が一緒に盛り上がれる、というところが楽しくて仕方がないらしい。
三女がわたしにところ来ていう。
「ママ、わたしは DS がいいんだけど、いい?」
わたしはぐっとなる。
なんでわたしの意見を聞くの。
わたしの意見はずっと無視され続けてきたのよ。
わたしの意見を聞いたところでどうなるものでもなし。
「ママは反対だよ。だけど聞いてどうするの」
いいながら、ああこの子はパパだけじゃなくてママからも賛同してもらえるプレゼントがいいんだなと理解する。
「親に好かれたい」という気持ちはかつてのわたしにもあった。
「反対」ということばを聞きつけて長女までが登場し
なんだか「またママが」な険悪な雰囲気におちいった。
結局は五人で出かけて、三女はレゴのプレイモービルにしたらしい。
あ~あ。
ほしいもの、買ってもらえばよかったのに。
三女に同情しながら、三女の気持ちが痛くて涙が出る。
毎年毎年、わたしにとってのクリスマスはクルシミマスだ。
ちりちりと、胸の内に消化されない不満を抱えつつ
それでも、今年もまたこの日を迎えられたなあとほっとする自分もいる。
毎年相変わらずの、ツリーに飾るオーナメントを段ボールから出しながら
数年前に作った自分の作品をぢっと見つめる三女。
どんなに遠くの時代に来たとしても
どんなに遠くの国に来たとしても
変わらないものはずっとかわらないんだろうな。
