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カテゴリ:五 人 家 族( 21 )

カンレキオメデトウ。

カンレキオメデトウ。_f0136579_22535063.jpg


わたしが小学校にあがる年に兄は中学にあがる。
六歳違い、というのは小さいころは大きかった。

やせ型で背が高かったからよけいにそう感じた。
わたしがものごころついたころには兄は子ども側ではなくてむしろおとな側にいる人だった。

遊んでもらった記憶はない。
兄とて遊ぼうにも妹相手に何をすればいいのかわからなかっただろう。

泣かされたことは何度もある。
泣くとすぐに母親のところに飛んでいこうとするから「泣き止んでから行け」と言われた。

兄は高校三年生のとき一度だけ補導されたことがある。
土曜日の午前中に友人とゲームセンターにいた、という理由で。

母親が警察に迎えに行き、
「なんで午後まで待てんやったとかねえ。それも十一時やったって。あと少し待てばよかったとけ」
と補導されたことよりも別の理由で怒っていた。

土曜日、学校は半ドンだから午後だったら補導だってされない、ということらしい。

それがきっかけか、兄の部屋のことなど無頓着だった母親がある日兄のタンスをのぞいた。
空の一升瓶がごろん、と入っていて母親はびっくり仰天。

そしてよく見ると一升瓶は一本だけではかった。
奥のほうに何本も押し込まれていたらしい。

当時は酒好きの父親への贈りものに一升瓶が届くことが多かった。
納戸に無造作に放り込まれた一升瓶を兄が一本、また一本と持ち出しては消費していたのだ。

「こんだけ持ち出されて気づかんとはお母さんもお母さんばい」
今度は母親が父親に小言を言われている。

わたしたちは三人きょうだい。
長兄、次兄、そして末っ子のわたし。

わたしは親に叱られた記憶のないお気楽な子ども時代だったが
兄は逆に叱られる役専門だった。

兄が悪さをすればもちろん叱られる。
次兄が悪さをすれば「おまえがしっかりしとらんからだ」とこれまた叱られる。

父親の背丈をとうに追い越した兄が
父親に見上げられながら叱られている姿をちょくちょく見た。

「ばかにしよってからが。オレはまだおまえには負けんぞ」

父親がそういって兄を押し倒そうとしたことがあった。
兄はちょっとよろけただけで倒れなかった。

一升瓶に続いて母親が発見したのは大量の雑誌 playboy 。
これまたびっくり仰天した母親が父親に提言することとなった。

エロ本を読めば不良になる、的な発想が母親にもあったのだろうか。
兄は「はあ?」とでも言ったのだろうか。

「そげんよかもんならちょっと持って来て見せてみ」

父親に言われて数冊を居間に持って来た兄。
父親の後ろからこっそりのぞくと、金髪のきれいな女性のはだかの写真が満載だった。

兄の部屋からエロ本が、というのにはちょっとわくわくする出来事だったが
それを父親が見たがる、というのはもっとわくわくした。
当時はまだ、「マジで?」ということばはなかったかもしれないが、「マジで?」と思った。

「お、こりゃあ父ちゃん、たってきたばい」
普段は笑わない父親がちゃかしたように言う。

「まじね。いまや小学生でもこげんとじゃあ立たんばい」
兄がまじめな顔をして答える。

わたしの育った家はけして文化的ではなくとりわけあたたかいというわけでもなく
笑いのたえないということもけしてなくむしろ誰もがいつもしんとしていた家だった。

父親が音を極端に嫌う人だったから、いつも母親に「しーっ!」と言われていた。

もらい物に入っていたプチプチをつぶす音、テレビのコマーシャルの音、家事の音。
わたしたちはなるべく音の出ない生活をしていたような気がする。

それでもおもしろいな楽しいなということはたまにあったし
いつも両親がそばで働いている姿を見ることができるいい環境だった。

兄が家を出たのは大学受験に失敗して予備校に通うためだった。

母親の苦肉策で「家にいたら甘えて勉強しないだろう」という理由で
父親の兄の家、それは諫早市内にあった、に下宿しつつ予備校に通うことになった。

次の年には無事に大学に入学して兄は医学生になった。

この頃からわたしは兄に手紙を書くようになった。
何を書いていたのかはまったく記憶にないのだがおそらくは他愛もないことだったのだろう。

そしてわたしは高校生になって好きな男の子のことで悩んだ。

高校に入ってわたしはいわゆるモテキ(人生の中でもてる時期)に突入するのだが、
やっかいなことはわたしは自分に気のない人にばかり好かれて
肝心のわたしの好きな人には一向にふりむいてもらえなかった。

一度、手紙では伝えにくいと思ったわたしは兄に電話して相談した。

そうね、そうね、と相づちを打ちながら一通り話しを聞いてくれた兄が
「残念ばってん、オレはその手の相談事には乗ってやれん。
でもちょうどその手の話の得意なやつの遊びに来とるけんかわるけんね。もう一回、その話ばしてみんね」

そう言われて兄の友人(会ったことはない)に相談にのってもらったこともある。

この頃の兄はわたしがいちばん素直に話のできる相手で色んな話を聞いてもらっていた。
兄もいま思えばぐちひとつをこぼすわけでもなくわたしの話を辛抱強く聞いてくれていた。

兄はもともと背が高かったのだが最終的には190cmまでのびた。
両親、次兄、わたしも超平均的な身長だから生物学的には突然変異、というやつだろうか。

高身長の人はいまではそう珍しくもないが当時はあまりいなかった。
兄はだからサイズの合う服を見つけるのにたいそう苦労をしていた。

母親は「ふとんからいつも足がでてかわいそう」とふとんを特注で作った。
二メートル以上もあるその敷布団はだらりと長かった。

「子どもはおいのことばこわがるとよ」

兄はそう言った。大きい人を小さい子どもはこわがるらしい。
うそだと思っていたのだが一緒に街を歩いているとき本当に赤ちゃんが兄を見て泣き出したことがあった。

医学生の三年生の頃だったか、当時は長崎市内でひとり暮らしをしていた兄だったが
うつ病と診断されて実家に戻ってきたことがある。

玄関に立った兄の頬はマンガで見るみたいにげっそりとこけていた。
次兄はもう大学へ入って家を出ていたから実家は両親とわたしの三人。

「あんた、頬のこけとるやないの」
普通の調子で、と思っているらしい母親が口を開く。

父親とわたしは兄のあまりにも変わり果てた姿にぼうぜんとしている。

「そう?そげんこけとる?じゃあ写真でも撮ろうか」
兄はそう言ってほんとうに母親が活け花教室用に持っていたポラロイドカメラで写真を撮った。

担当医は同時に兄の教授でもあった。
「はげますのがいちばんいけない。がんばっては禁句」
と言われ何を話していいかわからずほとんど話をしなかった。

ずっと部屋にこもりきりで食事の時間に降りて来るくらいだったが
話せば普通だし食欲も普通にあったのじゃなかったか。

三ヶ月後か六ヶ月後か覚えていないが兄はまた自分の下宿へ戻った。
一年くらいは薬を服用してうつ病はかんかいした。

わたしは東京の大学へ通うことになった。
在学中に友人がドイツ人と結婚した。

夫婦で九州に旅行したとき、兄がわたしたちをレストランに招いてくれた。
兄の奥さんも一緒だった。

兄はドイツ人にもわかりやすいようにと大声でゆっくりと話した。
友人と友人の夫をこころからもてなしてくれている感が伝わってきてうれしかった。

兄夫婦に子どもができた。
「子どもの名前は楽(らく)だって。兄ちゃんらしかろ」、
と母親に聞いた。なんてすてきな名前!

わたしはいっぺんでその名前が気に入った。
早く楽ちゃん、て呼びたいなと思った。

ところが奥さんの家族の大反対にあってその名前は実現しなかった。
わたしは自分の子どもが生まれたときにその名前のことを思い出さないわけではなかった。

でも兄のつけそこなった名まえをもらう気ににもなれず
とうとう楽ちゃんはどこにも存在しない。

わたしが長女を出産する直前に母親の肺にがんが見つかった。
肺には水がたまっていてがんの末期だという。

わたしは里帰り出産を予定していたから
その予定を繰り上げて母親のところへ飛んで帰った。

母は清潔とは思えない小さな個人病院の病棟にいた。
大きい病院へ行くと検査漬けになるから動きたくないという。

「せめて自宅に」というわたしに兄は「甘い」と反対した。
「人を死ぬまで看るのは甘くない。自宅でなんてとても無理」。

「わたしが最後まで看る。お願い」。

母親に聞いてくれた。
「そりゃあ家で死ねるなら家で死にたい」。

わたしが自宅に戻ると兄は業者さんに頼んで二階のベッドを下に降ろしてくれた。

がんの宣告を受けてから十ヵ月後に母親が死んでしまうまでわたしはほとんどを実家で過ごすことになる。
母親が死ぬのは1月21日。

その年のお正月はだから兄の家族、次兄の家族、わたしの夫も戻ってにぎやかだった。
わたしの長女は生後六ヶ月。

母親のベッドを置いた座敷のふすまを開けると兄が枕元にいた。
わたしが入ると同時に会話が中断されたのを感じてわたしはふたたび部屋を出る。

その後、母親とふたりだけになったときに母親が言う。
「おい(おれ)、母ちゃんの子どもでよかったって言われたよ」。
「へえ!よかったね」。

「最初の子どもやったし、めちゃくちゃやったけどねえ」
母親はうれしそうだった。兄がちゃんとことばで伝えてくれたことがうれしかった。

数年後、わたしの行いが原因で兄との交流は途絶えた。
もう数えるのも面倒なくらい長い時間が流れた。

兄の誕生日は7月14日。フランスは祭日だ。
今年兄は還暦。

暦がひとまわり。
あたらしい人生のはじまり。

どうかどうかお元気で。
また会えるといいな。

















すみませんすみません脈略も何もなくて読みにくくて。今日中にとあせりました。誕生日おめでとうございます!
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写真は2015年5月。ニースの空。








by kyotachan | 2020-07-14 23:18 | 五 人 家 族 | Comments(8)

burn out バーンアウト/ 燃え尽き症候群_f0136579_19481420.jpg

最近やたらと耳にする Burn out ということば。

最初は夫が使ったのだ。
「○○(共通のフランス人の友人)は Burn out だったんだよ」と。

「はっ?!なんすかそれ?」
と問うわたしに夫は言った。

「うつの激しいやつ」

それを聞いて、ああ、Burn out ! 燃え尽きちゃった人ってことね、と理解した。

それを皮切りに、というわけでもなかろうが、
それ以来、何度も何度も耳に入ってくる。

それも「わたし Burn out だったのよね」
と自己申告する人たち。

その度に、「うわ!おまえもか!」と思う。
だって目の前にいる人、全然そんな風には見えない!

わたしにとっての「うつ」は長兄のかかったうつが基本になっている。

当時大学生だった長兄は実家を出て長崎市内で一人暮らしをしていた。
医学部の何年生だったか、失念してしまったが、三年生?四年生?

「死ぬことばかりを考えてしまって自制心がきかない」
ということだった。

医学生だからもちろん、うつがどんな病気かの知識もあり
それでも自分がそれに罹患してしまった。

がんの知識があってもがんにかかる医者はいるのだから
なにも不思議なことはないのだが、
当時中学生だか高校生だったかのわたしは、「ええっ!なんでそんなことが!」とかなり驚いた。

長兄の友人が元気付けようとドライブに誘ってくれ、
車の助手席に座っていた長兄は車の走行中に無意識にドアを開けて外に飛び出しそうになったそうだ。

「こりゃもうあかん。医者に連れてって」
ということになり、医者のすすめで長兄は帰省してきた。

別人だった。
頬が漫画で描いたように三角にこけていた。
目が漫画で描いたようにくぼんでいた。
もともとやせ型体形なのだが、その時はもう、ガリガリだった。

「いやあ、あんた、えろうやせとるやんね~」。
長兄を見たとたん、事態の深刻さを察しただろう母が
その深刻さを払拭したいかのように明るく言った。

「まじね。そぎゃんやせとるやろか。そいぎん写真でも一枚、とっとこーか」。
長兄は長兄で、やせていることくらいとっくに気がついているだろうに
そんなことにはたった今いわれるまで気がつかなかった、というふりをした。

父親は何も言わず、うっすらと笑っていたような気がする。

そして本当に、カメラにフイルムが残っていたことを確認した長兄は
父親だか母親だかに頼んで写真を一枚撮った。

次兄のほうもすでに実家を出てしまっていたから
実家には両親とわたしだけだった。

しばらく長兄はうちで療養することになった。
確か数ヶ月、半年くらいはいたのじゃなかったかと思う。

長兄はほとんどの時間を自室で過ごしてたのだけど、
たまに話すこともあった。

長兄が死んでしまうことだけはいやだった。
かといって、わたしたち家族にできることはそんなになかった。

ただただ静かに長兄の回復を見守るしかなかったのだ。
長崎のアパートに戻ってもしばらくは薬を飲んでいると聞いた。

うつってなんてやっかいな病気なんだと思った。

そんなやっかいな病気にあいつもこいつもかかっているのか?
それはほんとうなのか?ほんとうにそうなのか?

というつまらない疑問。どうでもよかったね。

蛇足。
日本人では考えられないサイズの肥満体の人、
を見かけることがある。

よくもまあ、からだのどこも悪くせずにそこまで食べることができましたね、
とわたしなんかは感心して尊敬の念さえわくほどだったのだけど、

このくらい太った人は antidépresseur アンチデプレッサー/ 抗うつ剤の副作用なんだと友人が教えてくれた。

ということはけっこうなうつ患者がいるってことなのか?
あ、そもそもうつと Burn out は一緒にしちゃあいけなかった?

というつまらない疑問。すみません。













写真は去年の夏に訪れた小さな村。
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by kyotachan | 2018-04-30 19:51 | 五 人 家 族 | Comments(2)

cinquante et un ans サンコンテアノン/ 五十一歳_f0136579_15564377.jpg

電話の先で兄が言う。

「イタリアってほとんどのレストランにビンボー・メニューっつーのがあるんよ。
値段が普通の半分くらいで、店のネエチャンを呼んで、ビンボー・メニューってなんやねん!
貧乏人が食うメニューなんかい!て聞いたら、なんか、小盛りになっとるらしか」。

わたしだってイタリアのレストランには何度も入ったことがあるけれど、そのビンボー・メニューとやらには出くわしたことはない。

だけど、貧乏人のメニューって???

電話のこちら側で話を聞きながら、ちりり、と違和感を抱く。
イタリア人が日本語の「貧乏」てことばを知っているの???

「そのビンボーってさ、貧乏ちゃうよ。バンビちゃんとかさ、子ども向けのメニューってことやないかと思うんやけど」

「え、そうなん?」

え、そうなん?て、イタリアで bimbo てことばに貧乏を当てはめるの、あんただけだってば!
今になって兄は兄風のユーモアをかましただけだったのかもしれない、とも思えてきた。

さっそくグーグルで訳してみたらイタリア語の bimbo は「赤ちゃん」と出て来た。

この日はわたしの五十一歳の誕生日。

家族で出かけたタイ料理のレストランもうれしかったけど、
でも兄からもらった一本の電話のうれしさにはかなわない。

電話、またかけてねー!

51 ans dans l'eau

むかーしフランスにはこんなTVコマーシャルがあったそう。
51 cinquante et un / サンコンテアン はパスティスというお酒。

今年は水を得た魚のごとく、楽しく泳ぐぞ。

















写真はついにわたしの背を抜いた我が家の末っ子。
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五十一歳ににして家族でいちばんのちびになってしもーた。








by kyotachan | 2017-08-05 16:09 | 五 人 家 族 | Comments(8)

mon père モンペー/ 父親








mon père モンペー/ 父親_f0136579_21104145.jpg

母親に比べて父親に関する思い出は少ない。
なのにここのところ、父親のことばかりが思い出される。

父親に関する最初の記憶は、わたしが小学校の一年生か、二年生の頃。
夕食がすんで、わたしは居間のちゃぶ台にひじをついてテレビを見ていた。
隣には父親がいて、何か書き物をしていた。

わたしにしてみたら「珍しく父親の隣で過ごす時間」を、なんとなくいい気分で過ごしていた、ような気がする。

と、突然、父親が叫んだ。

「お母さん!なんね、きょうたは!勉強もせんと、テレビばっかい見よるやなかね!」

突然叫ばれたお母さんはといえば、居間の横にある、台所で、皿を洗っているところだった。

自分の父親が「そういう人」なのは知っていたはずなのに、なぜかその時のわたしは、父親のそばでそうしてもいいような気が、勝手にしていたのだった。

わたしはびくりとした。
そして、え?と思った。

お父さんはなんで、隣にいるわたしに向かってではなく、台所でお皿を洗っているお母さんに叫ぶの?

お母さんは何ひとつ動じることなく、自分の仕事、つまりは皿洗いの手を止めることなく、首だけをわたしの方に向けて言い放った。

「きょうたちゃん、お父さんの怒りよらすやろが。宿題ばしんしゃい」。

今になって想像してみると、母親はこのような夫の態度には慣れていたのだと思う。
わたしには年の離れた兄がふたりいるのだ。
自分の夫が子どもに対する態度に対しては充分に経験を積んでいたことだろう。
時代のせいにすれば「父親は外で仕事、母親は家で子育て」というのが普通の図式ではあった。

実際は母親もフルタイムで働いていたのだけれど、家の中のことに関しては百パーセント、母親に任せられていた。

突然、母親経由で父親に叱られたわたしは、顔がカーッと熱くなった。
ほんとうに、その時の自分のほっぺたの熱さを、今も感じることができるくらいだ。

そして父親の方を見ることなく、母親に向かって「うん」、と短く言い、の場を去った。









ある日、父親とふたりで、スケート場に行くことになった。
母親経由で叱られた前なのか後なのか、記憶はあいまいだが、
その頃とあまり大差ないと思う。

救急病院に勤めていた父親が、週末にゆっくりと家にいる、ということは珍しく、
わたしの記憶に間違いがなければ、家族で行楽地に出かける、ということはただのいっぺんもなかった。

おそらくは父親の気まぐれで「きょうたをスケートに連れて行く」ことになったのだろう。
そして母親は「それはいい考えだ、そうしましょうそうしましょう、ほらほら、お父さんがスケートに連れて行ってくれるんだってよ、」
と手際よくその手はずを整えたのだろう、と思う。

父親が車を運転し、わたしは助手席。
そのころはシートベルトを締めることもなかった。

肝心のスケート場で父親がどうだったのか、わたしがどんな風だったのか、
まるで記憶はないのだか、ただ覚えているのは、

行きに、大きな交差点に向かうとき、父親が突然アクセルを踏み込んだことだ。
子ども心にも、おや?と思うほどのスピードだった。

そして交差点にかかる直前に信号が赤に変わった。
あっ
と思ったか思わなかったか、な時に
父親の車は信号を無視して通過した。

子どもながらに「ここでは口を開いてはならない」と察した。
父親のほうもだんまりを決め込んだ。

そして、家に戻った時に、父親がきまり悪そうに母親に向かってその日がどうだったか報告している姿だ。
「きょうたが怖がって、いっちょん、すべりたがらんもん」。

父親のほうも、けしてうまいスケーターではなかったのだ。
そのことはわたしの口からは言わなかった。
母親もそのことは聞いてこなかった。











母親が死んで、父親がひとり残された。
三人いた子どもたちはそれぞれに家庭を持っていた。

わたしが実家に戻り、来客があると、父親は必ずその人に向かってこう言った。
「わたしは娘とは仲の悪かとですよね」。

そう言われて、傷ついている自分に気がついて、ちょっとびっくりした。

え?わたし、お父さんと、仲が悪いんだったっけ?

父親にしてみたら、そういうことで自分が傷つくのを防いでいたのだろう。










男男男、と男ばかり立て続けに三人生まれて
(三人目は未熟児で亡くなってしまったけど)
わたしが生まれたときには「女の子」だとはなかなか信じられなかったという父。

仕事中に母親のいる病院に来ておむつをはぎ、
「これは間違いなし」
と確認して仕事に戻ったという。

不器用ではあったかもしれないが、
わたしを愛してくれたことには間違いがない。

そして、わたしの命をこの世に送り込んでくれたことへの感謝を
わたしは一度も父親を前に口にすることがなかった。







生前の父の姿をいくつか思い出しながら、なぜこんなにも父親を?と自問すれば
なんのことはない、向田邦子の『父の詫び状』を読み返したからだった。

わたしってけっこー単純!

数えてみたら、父親が死んで十二年が経っていた。
ちょうどひと回りしていた。




















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by kyotachan | 2016-07-04 21:17 | 五 人 家 族 | Comments(3)





bain chaud バンショ/ 熱いお風呂_f0136579_1621533.jpg

小さいころ、線路を渡った向こう側にヤヨイちゃんという子がいた。

わたしよりひとつ年上でそんなに仲良しではなかったのだけど、
わたしの母親とヤヨイちゃんのお母さんが同じ職場で働いていたせいで
なんとなく顔をあわせる機会が多かった。

ヤヨイちゃんのおうちのお風呂が五右衛門風呂だということを知った母親は
いまどき珍しいといたく感激して、わたしをお風呂に入りにやらせたことがあった。

わたしがなぜわざわざお風呂に入りに行かなければならないのかと尋ねると
「五右衛門風呂なんて珍しいもの、この先入ることなんてないだろうから入らせてもらいなさい」
と母親は答えた。

当時のわたしにとってはそんなものどうでもいいことだったのだが
「キョータちゃんは五右衛門風呂に入れるなんて運がいいねえ」
ということをことばの端々に感じさせる母親におされるようにしてヤヨイちゃんの家に行った。

ヤヨイちゃんはおそくできた子どもで、ご両親ともにヤヨイちゃんの祖父母といってもいいくらいの年齢だった。

五右衛門風呂の底には木のふたが沈ませてあり、そこにヤヨイちゃんのお父さんが先に入って待っている。
わたしはヤヨイちゃんのお母さんに抱っこされて、ヤヨイちゃんのお父さんに手渡された。
ということはわたしはせいぜい幼稚園の年少さんくらいだったのか。

風呂桶のふちにさわるとやけどするから気をつけるようにと言われてひどく緊張した。

そのあとたぶん、ヤヨイちゃんも入ってきたのではなかったか。

ヤヨイちゃんは日本人形のような顔をしていた。
そして日本舞踏を習っていてそれがすごく上手らしかった。

今読んでいる本に「五右衛門風呂」ということばを見つけて
そういえば、と昔の記憶がよみがえった。

「お母さんのおかげで入ったことがあったな五右衛門風呂に」と思い出した。

三十秒前のことはすぐに忘れてしまうくせに
昔のことだけはよく覚えている、という年齢になっちゃったのか?















蛇足。
バンショ、といえば「ホットワイン」?
いえいえ、ホットワインのほうは vin chaud ヴァンショ。

日本語の「バ」と「ヴァ」はややこしいくらい似たもの同士だけど
フランス語の「 b 」 と 「 v 」 は天と地ほどにも違う。































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by kyotachan | 2012-10-12 16:38 | 五 人 家 族 | Comments(9)




1 août プルミエウット/ 八月一日_f0136579_410294.jpg

母親が何年生まれだったか時々わからなくなる。
父親のほうは大正十五年、で、いつもきっちり覚えているのに。

確か父親より四つ下だったから昭和四年?
そうだな、うん、そうだったそうだった、昭和四年だよお母さんは。
いつもそんな風にして思い出すことになる。

わたしの頭の中にはいつも和暦しかなかった。
ふと昭和四年は西暦では?と調べてみたら1929年だった。

ぎょ、となったのは、29、がわたしの誕生日数だったからだ。

今まで気がつかなかったのって、これってどうよ。
自分のばかさかげんにあきれながらも、
母親の誕生日の中にも、29、という数字を発見したことがただただうれしい。









わたしの母親は、今から十三年前の1999年に、六十九歳で亡くなった。
あら。なんだかやたらめったら、9、じゃない?

母がもし生きていたら今年八十三歳。

もし、や、たら、の話はまったくもって時間のむだ。

そんなことはわかっているのに、今年はなぜか、
母親が1929年生まれだったことに気づいたことから母親の年齢が気になって仕方がない。

コンピュータを立ち上げたときにグーグルがその日の誕生日の人を紹介することがある。
たいていは亡くなった人たちで、わたしにはなじみのない人が多い。
気が向くとクリックして、へー、そんな人がいたのねえ、なんてやっている。

その続きで、母親は生誕八十三年なんだな、と思ったのもある。
死んでしまったって、お祝いしていいんだよね誕生日なんだもの。













わたしの人生と母親の人生の不思議な一致点。
それはわたしも母親も出産を四回していること。
最初の出産と最後の出産の年齢が同じということ。

つまり、わたしにとっての三女が、母親にとってはわたしということ。

わたしにとって三女がどれほどいとおしいかを思えば
母親がわたしをどれおどいとおしく思っていてくれたかはおのずとわかるというもの。

それはわたしが上の三人のこどもたちをいとおしく思っていないとは違う。
誰もかれもがいとおおしてくてたまらない。

だけど。

最後のひとりに対するいとおしさは何かことばにはできない格別なもの。
先に生まれた子どもたちにはもうしわけないけれど。いやほんとごめんね......。

母親にとって、わたしのことがどんだけかわいかったか。
死ぬ間際にも「キョータちゃんのことだけが心配」と言っていた。














お母さん、今日は八月一日。
お母さんの誕生日だね。

八十三歳、おめでとう。
わたしはつい先日、四十六歳になりました。

わたしといえば年齢の数字だけがどんどん増えて、まだまだがきんちょのままです。
お母さんが「常識のある人には育てなかった」といってくれたほどのことはあります。

お母さん、わたしを生んでくれてどうもありがとう。
お母さんの子どもでわたしはほんとうによかった。

お母さんはね、わたしの中ではまだまだ健在なんよ。
いつもほんとうにどうもありがとう。





































予約投稿なり。
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オレもね、約四十年前はこれくらいかわいかったんよ。

by kyotachan | 2012-08-01 08:01 | 五 人 家 族 | Comments(12)








bol est cassé ボルエカッセ/ お茶碗が割れた_f0136579_1131522.jpg

またひとつ、割ってしもうた。

手放すことは得意のはずだけど。
形あるものはいずれ無くなるものと覚悟しているはずだけど。

ああ…お母さんごめん。

白と青の色合いとか、
猫足のついているところとか、
ちょっと細長いところとか、
特に気に入っているものだったのに。









今日は曇り空で
雨も少しぱらついて
外出したとき、二回、すべりそうになった。

ああ、来るな三回目。

そう心つもりしていたら、
こいつが。

こいつが手からすべってしもうた。
変わりにすべってくれたんやねきっと。















bol est cassé ボルエカッセ/ お茶碗が割れた_f0136579_1133323.jpg

割れたものをくっつけるのはしみったれてるからしない。
そう思っているんだけど、これはやってしまいそう。































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by kyotachan | 2012-01-31 01:22 | 五 人 家 族 | Comments(10)






saké japonais サケジャポネ/ 日本酒_f0136579_21144246.jpg

わたしの父は働くこと以外に楽しむということを知らない人だった。
救急病院に指定された個人病院で、それこそ土日祭日も関係なく働いた。
そしてついに、働くことについて、父がぐちをいうのを聞いたことがない。
いまさらながら、働きものの父だった。

そんな父の唯一の楽しみが、仕事が終わってから飲むお酒だった。
たいていは、食事が終わってからも飲み続け、ついにはテレビの前で寝てしまう。
その父を、寝室まで引きずっていくのが母親の役目だった。

それでも夜中に救急車が来れば
起きて出て行っていた。

いわずもがな、交通事故は夜中と週末に多い。









母が亡くなって、父が亡くなるまでの五年間は、
父にとっては人生の中でももっとも厳しい時間だったろうと思う。

病気でもないのに入院させられた父に電話をした。
何か送ろうか、というわたしに父は即答した。

「酒がよか。四合瓶の」

ベッドの横の、物入れに入るサイズなんだろうなと一瞬にして理解した。
わたしは日本酒の四合瓶を二本、病院宛に送った。














それから数年後、フランスへ来ることになり、
父のいる病院に行った。

父はオムツをしてベッドに横たわっていた。

わたしはおみやげに、コンビニでアンパンを買った。

わたしたちの方を見もせずにアンパンにかぶりつく父の姿。

それがわたしの見た父の最期だ。











日本酒を、買っていってやればよかった。
わたしが父にできることはそれくらいしかなかったのに。

非常識な娘だったのだから、最後まで非常識に徹すればよかった。
あの時わたしはやっぱり、アンパンではなくて、お酒にするべきだった。













一年に一度だけ、一升瓶でお酒を買う。

今年はお正月には間に合わなかったけれど、
楽しみが、少々先にのばされただけのことだ。

日本酒を飲むたびに思う。

ああ、わたしのからだはお米でできているんだなあ。

小麦やぶどうからできるお酒には感じない、
からだに、すーっと溶け込んでいく心地よさを感じる。














久々の記憶喪失。

わたしは皿洗いも放棄して、和室でいびきをかいて寝ていたらしい。

やっぱりわたしの場合日本酒は、一年に一度でちょうどいいのかも…。


































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by kyotachan | 2012-01-07 22:35 | 五 人 家 族 | Comments(8)

vapeur ヴァパァ/ 湯気






vapeur ヴァパァ/ 湯気_f0136579_042651.jpg

わたしの母親は夕食の準備をするとき、
たとえば副菜を一品だけ、早い時間に、たとえば四時ごろに作っておく、
ということがよくあった。

それはひじきとこんにゃくの煮物だったり、
きんぴらごぼうだったりした。

その手の副菜をいれるお茶碗(というのか?)は、
忠えもんのもの、と決まっていた。

ウチの近所にあった小さな窯元・忠えもんさんの焼き物は(ウチのほうでは、陶器一般は焼き物、と呼ばれていた)
一見荒削りなのだけど、ほっこりと温かい作風で
値段も手ごろだったことから
母は一時、忠えもんさんに足繁く通っては色々と買ってきていた。

出来立ての、ひじきとこんにゃくの煮物が忠えもんの中でゆげを立てている。
このお茶碗はふたつきだったから、とても便利だったのだと思う。

四時、といえば、ちょうど小腹のすくころで、
わたしは、がまんできずにおはしを持ってきて勝手に食べてしまうことがあった。

最初はもちろん、ちょっとだけのつもりなのだけど
気がつくとわたしはたいてい、それを全部食べてしまっていた。

それを見た母はくすりと笑って
「なんねキョータちゃん。ひとりで食べてしもうたとね」
というくらいだった。

夕食のおかずに作ったものを早々に平らげられてしまって、
母は困らなかったのだろうか?









だいこんの皮とにんじんできんぴらを作った。
だいこんの皮の苦味にひとかけら入れた唐辛子がぴりりとからんでいい感じ。

こんな無駄のない料理をすると、
わたしってけっこうできる主婦じゃん?
と自分をほめてやりたくなる。

なにせ普段は無駄の多い主婦なだけに。


































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by kyotachan | 2011-11-26 00:56 | 五 人 家 族 | Comments(5)






même âge メーマージュ/ おない年_f0136579_21241572.jpg


母親がファンだったこともあって、
向田邦子は帰省するたびに読んでいた。

わたしも夢中になって読んだ記憶がある。
もう三十年近くも昔のことになってしまった。

Ginger さんからまた本が送られてきた。
向田邦子の随筆集が何冊か入っていた。

表紙に見覚えがあるし、
確かに読んだ記憶もあるのだが、
今回、初めて読む本のように新鮮な気持ちで読んだ。
はたして三十年前はどのくらい理解していたものやら、とも思った。

弟さんの向田保雄さんの書いた「姉貴の尻尾」も入っていた。
こちらは初めてで、読みながらおいおい泣いてしまった。

向田邦子の随筆集も、
何も泣かせる話ではないのに、
泣けて泣けて仕方がない。

台所の片隅でひとり、
ぐじゅぐじゅ言いながら読んでいる。

向田邦子と母親はおない年だった。

わたしは母親の生きた時代に
涙しているらしい。

日本が、もっとも日本らしい、
美しい時代だったのだなあなどと思う。

こういう言い方は嫌いなのに、
「昭和はよかったなあ」
と思っている自分がいる。

わたしの生きている時間はいつの間にか、
「昭和」より「平成」の方が長くなってしまった。

今年で、向田邦子が死んで三十年になる。
亡くなったニュースを聞いて、くやしそうにしていた母親の姿が見える。

わたしの母親は、十二年前の今日、亡くなった。

苦しんで苦しんでゆがんでしまっていた顔が、
ついにおだやかになった日でもあった。


























窓から見えたハトが、きょとん、としていてかわいくて。時々洗濯物を汚す犯人でもあります。
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長男と三女がお休み。ふたりで仲良く遊んでおります。ま、金曜日だしね。風邪の話題は今日でおしまい。>きっぱり。

恐れ入ります。
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by kyotachan | 2011-01-21 22:05 | 五 人 家 族

南仏・ニース在住。フランス人夫・一男三女の六人家族