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カンレキオメデトウ。

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わたしが小学校にあがる年に兄は中学にあがる。
六歳違い、というのは小さいころは大きかった。

やせ型で背が高かったからよけいにそう感じた。
わたしがものごころついたころには兄は子ども側ではなくてむしろおとな側にいる人だった。

遊んでもらった記憶はない。
兄とて遊ぼうにも妹相手に何をすればいいのかわからなかっただろう。

泣かされたことは何度もある。
泣くとすぐに母親のところに飛んでいこうとするから「泣き止んでから行け」と言われた。

兄は高校三年生のとき一度だけ補導されたことがある。
土曜日の午前中に友人とゲームセンターにいた、という理由で。

母親が警察に迎えに行き、
「なんで午後まで待てんやったとかねえ。それも十一時やったって。あと少し待てばよかったとけ」
と補導されたことよりも別の理由で怒っていた。

土曜日、学校は半ドンだから午後だったら補導だってされない、ということらしい。

それがきっかけか、兄の部屋のことなど無頓着だった母親がある日兄のタンスをのぞいた。
空の一升瓶がごろん、と入っていて母親はびっくり仰天。

そしてよく見ると一升瓶は一本だけではかった。
奥のほうに何本も押し込まれていたらしい。

当時は酒好きの父親への贈りものに一升瓶が届くことが多かった。
納戸に無造作に放り込まれた一升瓶を兄が一本、また一本と持ち出しては消費していたのだ。

「こんだけ持ち出されて気づかんとはお母さんもお母さんばい」
今度は母親が父親に小言を言われている。

わたしたちは三人きょうだい。
長兄、次兄、そして末っ子のわたし。

わたしは親に叱られた記憶のないお気楽な子ども時代だったが
兄は逆に叱られる役専門だった。

兄が悪さをすればもちろん叱られる。
次兄が悪さをすれば「おまえがしっかりしとらんからだ」とこれまた叱られる。

父親の背丈をとうに追い越した兄が
父親に見上げられながら叱られている姿をちょくちょく見た。

「ばかにしよってからが。オレはまだおまえには負けんぞ」

父親がそういって兄を押し倒そうとしたことがあった。
兄はちょっとよろけただけで倒れなかった。

一升瓶に続いて母親が発見したのは大量の雑誌 playboy 。
これまたびっくり仰天した母親が父親に提言することとなった。

エロ本を読めば不良になる、的な発想が母親にもあったのだろうか。
兄は「はあ?」とでも言ったのだろうか。

「そげんよかもんならちょっと持って来て見せてみ」

父親に言われて数冊を居間に持って来た兄。
父親の後ろからこっそりのぞくと、金髪のきれいな女性のはだかの写真が満載だった。

兄の部屋からエロ本が、というのにはちょっとわくわくする出来事だったが
それを父親が見たがる、というのはもっとわくわくした。
当時はまだ、「マジで?」ということばはなかったかもしれないが、「マジで?」と思った。

「お、こりゃあ父ちゃん、たってきたばい」
普段は笑わない父親がちゃかしたように言う。

「まじね。いまや小学生でもこげんとじゃあ立たんばい」
兄がまじめな顔をして答える。

わたしの育った家はけして文化的ではなくとりわけあたたかいというわけでもなく
笑いのたえないということもけしてなくむしろ誰もがいつもしんとしていた家だった。

父親が音を極端に嫌う人だったから、いつも母親に「しーっ!」と言われていた。

もらい物に入っていたプチプチをつぶす音、テレビのコマーシャルの音、家事の音。
わたしたちはなるべく音の出ない生活をしていたような気がする。

それでもおもしろいな楽しいなということはたまにあったし
いつも両親がそばで働いている姿を見ることができるいい環境だった。

兄が家を出たのは大学受験に失敗して予備校に通うためだった。

母親の苦肉策で「家にいたら甘えて勉強しないだろう」という理由で
父親の兄の家、それは諫早市内にあった、に下宿しつつ予備校に通うことになった。

次の年には無事に大学に入学して兄は医学生になった。

この頃からわたしは兄に手紙を書くようになった。
何を書いていたのかはまったく記憶にないのだがおそらくは他愛もないことだったのだろう。

そしてわたしは高校生になって好きな男の子のことで悩んだ。

高校に入ってわたしはいわゆるモテキ(人生の中でもてる時期)に突入するのだが、
やっかいなことはわたしは自分に気のない人にばかり好かれて
肝心のわたしの好きな人には一向にふりむいてもらえなかった。

一度、手紙では伝えにくいと思ったわたしは兄に電話して相談した。

そうね、そうね、と相づちを打ちながら一通り話しを聞いてくれた兄が
「残念ばってん、オレはその手の相談事には乗ってやれん。
でもちょうどその手の話の得意なやつの遊びに来とるけんかわるけんね。もう一回、その話ばしてみんね」

そう言われて兄の友人(会ったことはない)に相談にのってもらったこともある。

この頃の兄はわたしがいちばん素直に話のできる相手で色んな話を聞いてもらっていた。
兄もいま思えばぐちひとつをこぼすわけでもなくわたしの話を辛抱強く聞いてくれていた。

兄はもともと背が高かったのだが最終的には190cmまでのびた。
両親、次兄、わたしも超平均的な身長だから生物学的には突然変異、というやつだろうか。

高身長の人はいまではそう珍しくもないが当時はあまりいなかった。
兄はだからサイズの合う服を見つけるのにたいそう苦労をしていた。

母親は「ふとんからいつも足がでてかわいそう」とふとんを特注で作った。
二メートル以上もあるその敷布団はだらりと長かった。

「子どもはおいのことばこわがるとよ」

兄はそう言った。大きい人を小さい子どもはこわがるらしい。
うそだと思っていたのだが一緒に街を歩いているとき本当に赤ちゃんが兄を見て泣き出したことがあった。

医学生の三年生の頃だったか、当時は長崎市内でひとり暮らしをしていた兄だったが
うつ病と診断されて実家に戻ってきたことがある。

玄関に立った兄の頬はマンガで見るみたいにげっそりとこけていた。
次兄はもう大学へ入って家を出ていたから実家は両親とわたしの三人。

「あんた、頬のこけとるやないの」
普通の調子で、と思っているらしい母親が口を開く。

父親とわたしは兄のあまりにも変わり果てた姿にぼうぜんとしている。

「そう?そげんこけとる?じゃあ写真でも撮ろうか」
兄はそう言ってほんとうに母親が活け花教室用に持っていたポラロイドカメラで写真を撮った。

担当医は同時に兄の教授でもあった。
「はげますのがいちばんいけない。がんばっては禁句」
と言われ何を話していいかわからずほとんど話をしなかった。

ずっと部屋にこもりきりで食事の時間に降りて来るくらいだったが
話せば普通だし食欲も普通にあったのじゃなかったか。

三ヶ月後か六ヶ月後か覚えていないが兄はまた自分の下宿へ戻った。
一年くらいは薬を服用してうつ病はかんかいした。

わたしは東京の大学へ通うことになった。
在学中に友人がドイツ人と結婚した。

夫婦で九州に旅行したとき、兄がわたしたちをレストランに招いてくれた。
兄の奥さんも一緒だった。

兄はドイツ人にもわかりやすいようにと大声でゆっくりと話した。
友人と友人の夫をこころからもてなしてくれている感が伝わってきてうれしかった。

兄夫婦に子どもができた。
「子どもの名前は楽(らく)だって。兄ちゃんらしかろ」、
と母親に聞いた。なんてすてきな名前!

わたしはいっぺんでその名前が気に入った。
早く楽ちゃん、て呼びたいなと思った。

ところが奥さんの家族の大反対にあってその名前は実現しなかった。
わたしは自分の子どもが生まれたときにその名前のことを思い出さないわけではなかった。

でも兄のつけそこなった名まえをもらう気ににもなれず
とうとう楽ちゃんはどこにも存在しない。

わたしが長女を出産する直前に母親の肺にがんが見つかった。
肺には水がたまっていてがんの末期だという。

わたしは里帰り出産を予定していたから
その予定を繰り上げて母親のところへ飛んで帰った。

母は清潔とは思えない小さな個人病院の病棟にいた。
大きい病院へ行くと検査漬けになるから動きたくないという。

「せめて自宅に」というわたしに兄は「甘い」と反対した。
「人を死ぬまで看るのは甘くない。自宅でなんてとても無理」。

「わたしが最後まで看る。お願い」。

母親に聞いてくれた。
「そりゃあ家で死ねるなら家で死にたい」。

わたしが自宅に戻ると兄は業者さんに頼んで二階のベッドを下に降ろしてくれた。

がんの宣告を受けてから十ヵ月後に母親が死んでしまうまでわたしはほとんどを実家で過ごすことになる。
母親が死ぬのは1月21日。

その年のお正月はだから兄の家族、次兄の家族、わたしの夫も戻ってにぎやかだった。
わたしの長女は生後六ヶ月。

母親のベッドを置いた座敷のふすまを開けると兄が枕元にいた。
わたしが入ると同時に会話が中断されたのを感じてわたしはふたたび部屋を出る。

その後、母親とふたりだけになったときに母親が言う。
「おい(おれ)、母ちゃんの子どもでよかったって言われたよ」。
「へえ!よかったね」。

「最初の子どもやったし、めちゃくちゃやったけどねえ」
母親はうれしそうだった。兄がちゃんとことばで伝えてくれたことがうれしかった。

数年後、わたしの行いが原因で兄との交流は途絶えた。
もう数えるのも面倒なくらい長い時間が流れた。

兄の誕生日は7月14日。フランスは祭日だ。
今年兄は還暦。

暦がひとまわり。
あたらしい人生のはじまり。

どうかどうかお元気で。
また会えるといいな。

















すみませんすみません脈略も何もなくて読みにくくて。今日中にとあせりました。誕生日おめでとうございます!
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写真は2015年5月。ニースの空。








Commented by アンジー at 2020-07-16 13:20 x
お兄さま 還暦おめでとうございます
私も お先に還暦を迎えました
お兄さまと 昔みたいに 交流が復活❗
しますように 祈ってますよ🎵
せっかく兄妹として 生まれてきたのに
残念ですよ  どうか 仲良くされてくださいな  
Commented by kyotachan at 2020-07-16 22:15
> アンジーさん
ありがとうございます。
還暦、遠い話だと思っていましたがわたしもあっちゅーまに迎えてしまいそうです。まさか大人になることなく六十歳になろうとは思ってもみませんでした。
Commented by iwamoto at 2020-07-17 18:33 x
弟の誕生日が7月14日です。
兄弟関係、問題無いです。

元気なうちに修復なさいますよう。
Commented by kyotachan at 2020-07-17 23:39
> iwamotoさん
あらま!奇遇ですね。フランスにいれば必ず祝日でラッキーなところでした。問題がなくて何よりです。
ほんとうに、そうなんですよー。ぐずぐずしていると死んじゃうじゃん!と思う年齢になりました。
お顔シリーズ百回目、拝見いたしました。あれはいいです。くすりとします。
Commented by 次兄 at 2020-07-19 08:38 x
プロマイドやなくポラロイドな、カメラ。
Commented by kyotachan at 2020-07-19 23:00
> 次兄さん
……。毎度すんません。弱いねんカタカナ。また頼むわ。
Commented by kandamyojin at 2020-07-26 20:51 x
kyotachan流のとてもいい文章ですね。感動します。お母さんを家で看取られたのですね。なかなかできないことです。私の両親は病院で亡くなりましたが、最後の2-3か月を弟(ふたり)妹と交代で病室に泊まり込みました。弟たちとはいまでも衝突することがありますが、妹はもういいおばあさんですが、兄にとっては無条件にかわいいものなのですよ。とても大きな方とうかがったことがあったことを思い出しました。折を見て連絡されてみてはいかがですか。きっと待っていらっしゃると思いますよ。
Commented by kyotachan at 2020-07-27 16:51
> kandamyojinさん
母親の友人たち、みなさん医者の奥さん方、がお見舞いにきてくれた日。「よく実家に戻ってこれましたねえ」「ええ、もうムスメが」、という会話が耳に入ってきました。夫が医者でも、というか、医者だからこそ実家で人を看ることが困難な選択枝になっているんだろうなあと思いました。幸い、付き添いさん、と呼ばれるヘルパーの方が泊り込みでついてくださったおかげでなんとか乗り切れたのだと思います。わたしは長女を抱っこしてそばにいればよかったのです。新聞を読む時間があるくらいならからだのどこかをさすってあげようと決めて新聞さえ読んでいませんでした。
兄からもらった最後のメールは never contact to us 。この壁は厚くて高い。生きている間に、と気はあせるのですが。
by kyotachan | 2020-07-14 23:18 | 五 人 家 族 | Comments(8)

南仏・ニース在住。フランス人元夫の間に一男三女。

by kyotachan
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