2012年 12月 23日
かわるもの・かわらないもの
子どもたちを車で学校へ送る途中
坂道を歩いて登る子どもたちを見かける。
ふと母親のことを思い出す。
「ママの育った場所も、こんな風な山がたくさんあってね、
ママのお母さんは、こんな風に歩いている子どもを見かけると
『あんたどこまで行くと。乗っていかんね』て、自分の車に乗せてたんだよ」
それを聞いた子どもたちは、あ、へえ、いいねえそれ、なんて笑っている。
ほんとに、いいよねえ。
「そうできればいいなあと思うけどねえ。
残念ながらママにはできないなあ。
だいたい、知らない人の車に乗る、てこと、しないよね、今の子どもたちは」
そういうと、子どもたちもそれに同意する。
時代。
場所。
慣習。
土台。
わたしの育った環境とわたしの子どもたちの育つ環境の違いに
あらためてびっくりすることがある。
それはわたしたちが今、時代の大変革期にいるせいなのだろうかそれとも
わたしの親たちも、わたしを育てながら同じことを思っていたのだろうか。
わたしはとんでもなく遠いところへ来てしまったなあ。
どちらにしろ、わたしはこのことばを口の中でつぶやく。
今年のクリスマス。
サンタクロースの存在したことのない我が家では
今ではクリスマスは「パパが子どもたちに平等にプレゼントを買う日」なポジションを完全に確立した。
お誕生日と決定的に違うのは「四人そろって平等に」という点で
四人が一緒に盛り上がれる、というところが楽しくて仕方がないらしい。
三女がわたしにところ来ていう。
「ママ、わたしは DS がいいんだけど、いい?」
わたしはぐっとなる。
なんでわたしの意見を聞くの。
わたしの意見はずっと無視され続けてきたのよ。
わたしの意見を聞いたところでどうなるものでもなし。
「ママは反対だよ。だけど聞いてどうするの」
いいながら、ああこの子はパパだけじゃなくてママからも賛同してもらえるプレゼントがいいんだなと理解する。
「親に好かれたい」という気持ちはかつてのわたしにもあった。
「反対」ということばを聞きつけて長女までが登場し
なんだか「またママが」な険悪な雰囲気におちいった。
結局は五人で出かけて、三女はレゴのプレイモービルにしたらしい。
あ~あ。
ほしいもの、買ってもらえばよかったのに。
三女に同情しながら、三女の気持ちが痛くて涙が出る。
毎年毎年、わたしにとってのクリスマスはクルシミマスだ。
ちりちりと、胸の内に消化されない不満を抱えつつ
それでも、今年もまたこの日を迎えられたなあとほっとする自分もいる。
毎年相変わらずの、ツリーに飾るオーナメントを段ボールから出しながら
数年前に作った自分の作品をぢっと見つめる三女。
どんなに遠くの時代に来たとしても
どんなに遠くの国に来たとしても
変わらないものはずっとかわらないんだろうな。
なんとも時代遅れな女です。
楽しいクリスマスを!